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2008年12月29日 (月)

歎異抄 唯円

[二]
をのおの十余ヵ国のさかひをこえて、身命を
かへりみずして、たづねきたらしめたまふ御
こころざし、ひとへに往生極楽のみちをとひ
きかんがためなり。しかるに、念仏よりほか
に往生のみちをも存知し、また法文等をもし
りたるらんと、こころにくくおぼしめしてお
はしてはべらんは、おほきなるあやまりたる
なり。もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき
学生たち、おほく座せられてさぶらふなれば
、かのひとびとにもあひたてまつりて、往生
の要よくよくきかるべきなり。親鸞にをきて
は、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらす
べしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ず
るほかに別の子細なきなり。念仏は、まこと
に浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、
また地獄におつべき業にてやはんべるらん。
総じてもて存知せざるななり。たとひ法然聖
人にすかされまひらせて、念仏して地獄にお
ちたりとも、さらに後悔すべからずさぶらふ
。そのゆへは、自余の行をはげみて仏になる
べかりかりける身が、念仏をもうして地獄に
もおちてさふらはばこそ、すかされたてまつ
りといふ後悔もさふらはめ、いづの行もおよ
びがたき身なれば、とても地獄は一定すみか
ぞかし。弥陀の本願まことにおはしまさば、
釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まこと
におはしまさば、善導の御釈、虚言したまふ
べからず。善導の御釈まことならば、法然の
おほせそらごとならんや。法然のおほせまこ
とならば、親鸞がもうすむねまたもてむなし
かるべからずさふらふか。詮ずるところ愚身
の信心のをきては、かくのごとし。このうえ
は、念仏をとりりて信じたてまつらんとも、
またすてんとも、面々の御はからひなりと、
云々。

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