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2009年6月28日 (日)

砥部川周辺の古代窯業と「出部郷・砥部郷」

平成21年6月27日 砥部町文化会館にて開催の

陶砥の道の歴史散歩

講師 長井数秋さん
    愛媛考古学研究所 所長
    砥部町文化財保護審議会 会長

を拝聴して、以下概略を記述します。

メインテーマ”砥部川周辺の古代窯業と「出部・砥部郷」
        ”砥部町内にある宝函印塔”
        ”砥部町内に散在する未掘古墳”

砥部川周辺の古代窯業と「出部・砥部 郷」
1.はじめに
 砥部町は古代の「伊予砥」の産地であったと古くからいわれいます
 しかし、極めてあいまいな点が数多い。
2.古代の砥部の地名
 (1)伊豫国浮穴郡出部郷
 (2)出部郷と砥部
   1.出部郷と須恵器生産
   2.備前国の出部郷
3.古代砥部の須恵器生産
  愛媛県総合運動公園補助陸上競技場の西斜面中には、6世紀
  中葉の谷田2号窯跡があります。この2号窯跡の北30メートル
  の穏やかな尾根部分に、6世紀後半の谷田1号窯跡がありまし
  た。1号窯跡の北100メートルの平坦な舌状台地上に、3~4棟
  の住居跡と1棟の倉庫跡からなるムラが発見されています。
  このムラは1号窯跡を操業していた人達のもので、住居跡内の
  床面に直径1メートル、深さ1メートルの粘土貯蔵穴を穿ち、壁
  の立ち上がる住居でした。付近の舌状台地地上には、レンズ状
  に良質な青灰色粘土が分布していたので、これを原料としたよう
  で、その採取跡も確認さています。1号窯跡の南には付属する工
  房跡が、その南には2号窯跡をそれに付随する工房跡がありま
  した。
  谷田2号窯跡は6世紀中葉であり、北接して存在した谷田1号窯
  跡は6世紀後半から末にかけてのものであり、約半世紀の間隔
  が開いています。このことは、周辺に分布していた森林が燃料
  として伐採使用され、燃料がなくなったため他の場所に移動し、
  森林が再生した段階で、再び同じ場所に戻ってきたのではない
  かとみられいます。須恵器窯跡も南限が千足から北川毛を結ぶ
  線までであるのは、良質で豊富な粘土が得られ易い範囲を示し
  ていののかも知れません。
4.砥部川流域の土師器生産
  現在までのところ、土師器の窯跡とみられるものは発見されてい
  ません。
5.出部郷と伊豫砥
  砥部の地が少なくとも6世紀から9世紀までの間、伊豫国の須恵
  器生産の中心地でなったことは考古学的に証明されています。
  現段階では、須恵器である忌釜や陶器(すえのうつわ)から、
  出部(いずへ)-陶器(すえべ)-陶器(とべ)と、変遷をたどる
  ことも1つの考えかとも思われます。
  砥部といえば、江戸時代後半の杉野丈助による磁器の砥部焼
  が有名ですが、古墳時代の須恵器生産は、現在の砥部焼よりも
  古くて、長期間営まれた歴史があり、これらの製品が、松山平野
  一帯に分布する古墳や遺跡に豊富に残されており、それやに現
  在でも触れ、見るこごができます。
  須恵器やトベ焼の原料は粘土ですが、磁器は陶石を粉にしたも
  のを原料にしています。これには砥部郷外山村の砥石山の砥石
  屑を使用したことは論を待つまでもないことです。

以上伊予史談347号抜き刷り概略
平成19年10月1日発行

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