砥部川周辺の古代窯業と「出部郷・砥部郷」
平成21年6月27日 砥部町文化会館にて開催の
陶砥の道の歴史散歩
講師 長井数秋さん
愛媛考古学研究所 所長
砥部町文化財保護審議会 会長
を拝聴して、以下概略を記述します。
メインテーマ”砥部川周辺の古代窯業と「出部・砥部郷」
”砥部町内にある宝函印塔”
”砥部町内に散在する未掘古墳”
砥部川周辺の古代窯業と「出部・砥部 郷」
1.はじめに
砥部町は古代の「伊予砥」の産地であったと古くからいわれいます
しかし、極めてあいまいな点が数多い。
2.古代の砥部の地名
(1)伊豫国浮穴郡出部郷
(2)出部郷と砥部
1.出部郷と須恵器生産
2.備前国の出部郷
3.古代砥部の須恵器生産
愛媛県総合運動公園補助陸上競技場の西斜面中には、6世紀
中葉の谷田2号窯跡があります。この2号窯跡の北30メートル
の穏やかな尾根部分に、6世紀後半の谷田1号窯跡がありまし
た。1号窯跡の北100メートルの平坦な舌状台地上に、3~4棟
の住居跡と1棟の倉庫跡からなるムラが発見されています。
このムラは1号窯跡を操業していた人達のもので、住居跡内の
床面に直径1メートル、深さ1メートルの粘土貯蔵穴を穿ち、壁
の立ち上がる住居でした。付近の舌状台地地上には、レンズ状
に良質な青灰色粘土が分布していたので、これを原料としたよう
で、その採取跡も確認さています。1号窯跡の南には付属する工
房跡が、その南には2号窯跡をそれに付随する工房跡がありま
した。
谷田2号窯跡は6世紀中葉であり、北接して存在した谷田1号窯
跡は6世紀後半から末にかけてのものであり、約半世紀の間隔
が開いています。このことは、周辺に分布していた森林が燃料
として伐採使用され、燃料がなくなったため他の場所に移動し、
森林が再生した段階で、再び同じ場所に戻ってきたのではない
かとみられいます。須恵器窯跡も南限が千足から北川毛を結ぶ
線までであるのは、良質で豊富な粘土が得られ易い範囲を示し
ていののかも知れません。
4.砥部川流域の土師器生産
現在までのところ、土師器の窯跡とみられるものは発見されてい
ません。
5.出部郷と伊豫砥
砥部の地が少なくとも6世紀から9世紀までの間、伊豫国の須恵
器生産の中心地でなったことは考古学的に証明されています。
現段階では、須恵器である忌釜や陶器(すえのうつわ)から、
出部(いずへ)-陶器(すえべ)-陶器(とべ)と、変遷をたどる
ことも1つの考えかとも思われます。
砥部といえば、江戸時代後半の杉野丈助による磁器の砥部焼
が有名ですが、古墳時代の須恵器生産は、現在の砥部焼よりも
古くて、長期間営まれた歴史があり、これらの製品が、松山平野
一帯に分布する古墳や遺跡に豊富に残されており、それやに現
在でも触れ、見るこごができます。
須恵器やトベ焼の原料は粘土ですが、磁器は陶石を粉にしたも
のを原料にしています。これには砥部郷外山村の砥石山の砥石
屑を使用したことは論を待つまでもないことです。
以上伊予史談347号抜き刷り概略
平成19年10月1日発行
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 愛媛額 伊予郡砥部町広田地区の民話(2012.12.03)
- シルバーによる餅搗き(2012.11.11)
- 「愛媛県総合運動公園出土遺物里帰展」見て歩き(2012.10.31)
- ふるさとおもしろ講座で佐田岬半島を訪ねる 湊町・町見郷土館・見机の町並み・見机八幡神社(2012.10.25)
- 佐田岬半島と西日本の裂織(さきおり)特別展 生成24年10/6-12/2(2012.10.19)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント