特別企画 文藝春秋88年が伝えた震災・津波・被爆の証言 被爆 爆心地 六百メーチルの科学者 福龍丸乗組員のその後 阿部み光恭
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文藝春秋 六月特別号 特別企画 文藝春秋88年が伝えた震災・津波・被爆の証言
日本政府危機管理もレベル7
被災直後に必要な情報の十分の一しか開示されなかった
田中辰己 たなかたつみ 危機管理 コンサルタント
# 水パニック発生
# 各論でけの情報開示
# 正しい危機管理の手法
感知 解析 解毒 再生
# コミュニケーションの否決
# 立つ位地の錯誤を無くせ
加害者の岸/地震津波/東京電力/原子力安全・保安員/
現内閣(原子力災害管理本部)/現場の自衛隊・
消防隊・警察の隊員/原発の周辺住民(農業・漁業
酪農家や事故で影響を受ける諸外国)
被害者の岸
# 地震と原発の列島に住む我々国民も、政党や内閣の支持を決める
とき、その危機管理能力を尺度に加えるべきだ。
放射能は孫の代まで禍根を残すからである。
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文藝春秋 六月特別号 特別企画 文藝春秋88年が伝えた震災・津波・被爆の証言
関東大震災 朱儒の言葉 或自警団員の言葉 大正12年11月号 芥川龍之介
しかし、スヨウペンハウエルはーーーまあ、哲学はやめにして、我々はとに角あそこにきた蟻と大差のないことだけは確かである。人間らしい感情の全部は一層大切にしなければならむぬ。我々は互いに哀れみ会わればならぬ。況や殺戮を喜ぶとはーーーもっとも相手を絞め殺すよりは、議論に勝より手軽である。
災後雑感 大正12年11月号 菊池寛
地震は、われわらの人生を、もっとも端的は姿で見せてくれた。人生は根本的にではあるが、何が必要であるかを見せてくれた。われわれは、生命の安全と、その日の寝食と、その外は何も考えなかった。食べて寝ればそれ丈で充分満足していたのだ。
震災 大正12年11月号 横光利一
東京付近に住んでいるものなら、こう言う地震がいつかは来るにちがいないとは、誰しも予想していたと思われる。しかし、人々は不思議にこの災害の予想については一様にぼんやりとしていた。地震に合って初めて、こう言う地震はもう必ず起るに定っていると思っていた事を想い出だした。
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中央公論 2011 JUNE launched in 1887 6
特集 震災2ヶ月のいま、考えること
貞観地震の教訓と東海・東南海・南海地震の可能性
寒川 旭 独立行政法人技術総合研究者招聘研修員
# 貞観地震と東北地方太平洋地震
# 地震考古学とは何か
# 南海トラフトの巨大地震
# 地域別に見た地震災害の特徴
石狩地震 1839年
津軽地震 1766年
象潟地震 1804年
会津地震 1611年
安政江戸地震 1858年
善光寺地震 1847年
飛越地震 1858年
大正地震 1586年
伏見地震 1596年
播磨地震 868年
北丹後地震 1927年
濱田地震 1872年
筑紫地震 679年
別府地震 1591年
島原大変庇護迷惑 1782年
宮崎の外所地震 1662年
# 地震の歴史を現在に生かして
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中央公論 2011 JUNE launched in 1887 6
特集 震災2ヶ月のいま、考えること
東北処分の歴史を繰り返すな
戊辰戦争の教訓と原発事故
野口武彦 文藝評論家
# ポスト安政江戸地震と現代
巨大災害は一国の政治経済、社会生活、世相風俗に
潜在している諸要因をいっきょに顕在化する。
なかんずく巨大地震の破壊力は、地殻基盤と社会基盤
とかたんなる類比ではなく同一の震動モードで共振する
事象をさまざまと示している。
つまり、安政江戸地震から大政奉還への12年間と
阪神・淡路大震災から民主党による政権交代という
点からすれば、酷似しているように見える。
# 歴史は繰り返すが・・・・・
幕府が地震後12年にわたって庶民につちかったラディカル
な能天気、為政者への期待感ゼロ状態とことに徹底的な
政治的無関心が広がった。そして明治維新を迎えた。
一方、現代に目を向ければ、2009年9月には「政権交代」
への過剰な期待として民主党はおろか国民の一部にまで
第二の「明治維新」的な幻想が広がった。
しかし、現状は<明治維新のきざしすら見えぬ幕末>
状況である。
# 「想定外」の事態とうろたえるリーダー
タイプでもスケールも違っているし、地震のみならず
大津波、さらに福島第1原子力発電所の事故によって
甚大な被害を及ぼし、今まさに「想定外」に事態に直面
しているのだ。
# 戊辰戦争といる人為災害
# 「会津においては、死謝の外これなし」
# 奥州越後同盟とその崩壊
# 過酷な東北処分
仙台藩は62万石を没収され、28万石を与えられた
二本松藩は10万石を5万石に減少された
会津藩は元領の83万石を没収され、3万石を与えられ
会津盆地を追われ下北半島の僻地に押し込めるといった
懲罰的な処置であった
# 失望感の末路
維新のきざしなき現代の日本において、東日本大震災が
大きな転換点であることには間違いない。
日本中にくすぶtっている為政者への深い失望感を軽く
見る事は出来ない。
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私の人間形成の上で潜在的基礎をなしているのは、今まではあまり意識しなかったが、大東亜戦争が終わり、学校制度がGHQの命令で、それまでの複式から6・3・3.4制の一本に変更された当時、これでは将来の日本がダメになると、日本を指導する謂わば幹部候補を養成する為、昭和25年(1950年)いち早く、それまで和洋女学校として存在していた学校法人を、折から軍隊が解放され無用となった練兵場を市の中心のお城の前に安く買い取り、中高一貫校を設立した学校経営者がおり、それまで田舎の小学校で、丁度私がその小学校を卒業する昭和27年(1952年)に香川県綾歌郡に4ヵ村協立の飯山中学校が設立する事になり、本来ならば私はその飯山中学校の第1回卒業生となるはずであったが、五反百姓の三男坊の私の将来を考えた今は亡き父が、当時大変な教育費が掛かったと思われる、前述の中高一貫高の香川県大手前中等高騰学校に入学させて貰った。
その当時の先生方は香川県の庶務課で主に進駐軍の通訳をしておられた小野先生、東北大学を卒業され新婚の奥様ご同伴で赴任された稲垣先生、香川大学で歴史専門で学校の近くの市営住宅に住んでおらせた玉村先生、生物の分類学の専門の和気先生、大阪大学卒業で多度津の少林寺拳法を学ぶのが目的で赴任された武内先生らに学問の基礎を中学校に時代に叩き込まれた。
武内先生のニュートン力学(古典物理学)の3法則で全ての力学事象を見事に説明して見せた。
稲垣先生の日本国憲法と民主主義とそれを踏まえた国会、地方自治、そのノートが残っていればと思う
玉村先生の歴史とは5W1Hの追求であると時業の第1回目に説明された
小野先生により、キングリッシュの徹底的な暗記、英語で考える習慣をつける
校長先生の方針で、学科の優勢順位は英語、数学、理科、社会、国語は厳密に守られたが、私は今では
この考え方には反対だが、受験戦争では有利かも
その後、目出度く大手前中高等学校を卒業したが、京都、早稲田に堕ち、浪人してその当時
アンカンリツポンといわれていた立命館大学理工学部に入学し、当時まだご存命だった末川博博士の法律概論やお名前は忘れましたが、先生の資格を取るために是非とも執拗だった心理学概論や経済学概論も受講しました。京都の北西にあった衣笠キャンパスは赤松の林の中にフジの花さき、等持院や仁和寺も近く、本当は良き
メモトリアムの4年間でした。
その後、今と違い5月の連休にはすでに入社試験を受けの日の内に合格の通知が学校にあり、家に寄ってから学校の帰ると、もう他の会社には就職活動はできないと言われ、なんだかがっかりしとのを覚えています。
その会社で啼かず飛ばずの32年7ヶ月の勤めを終えて2000年5月に停年退職した時、介護制度が新しく
発足し、愛媛県の訪問介護員に課せられた講習をまず3級から、翌年には妻と一緒に2級の訪問介護員の講習修了し、その証書を受けました。
早速砥部町社会福祉協会に履歴書を付けて登録に行きましたが、年齢が60歳を超えているという理由で受け付けてももらえませんでした。しかし、妻はまだ年齢に余裕があったので、登録はしてくれましたが車の運転免許証を持っていので、実際の戦力にはならないようでした。
今は家の直ぐ近くにある愛媛県総合運動公園の初級テニス教室の入り、テニスと昨年から入った団地の老人会
”白梅会”でクロッケをしています。
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中央公論 2011 MAY Launched in 1887 5
時評 2011
震災復興に必要な熱い気持ちと冷静な視点
経済学者 大竹文雄 Ohtake Fumio
# 自分に出来ることは何か
1. インフラ回復
2. 供給能力の回復
3. 復興費用の調達
# 第4に 生産資源が足りなくなった経済に
おいてては、できるだけ市場メカニズムを
使って効率性を高めることが必要だ。
# 電力が足りない場合は、電力料金値上げ
も考えるべきだ。
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中央公論 2011 MAY Launched in 1887
時評2011 震災後の社会を切り開き 世界のフロントランナーとなれ
牧原出 Makihara Izuru 政治学者
# 「地震のときは、ふぐその家にいました。ものすごくゆれました・・・・・でも、皿が少し落ちたぐらいで、あまり家具とか倒れなかったです」
# 「実は会社に内緒なんですが、地震のときはたまたま新潟にいたんです。地震があったおいうので、電気ストーブとか買って家に戻ったんです。小さな孫た2人いるんですが、2人とも家族を助けてくれました。スーパーの買い出しで。孫たち、婿さん二人と私で並ぶんですよ。1人20品しか買えないんですが、孫たちも一人前として数えてくれるので。何とか当面必要は食料を買うことができました」
# 関東大震災後、被災からの復興を主導した内務大臣・後藤新平は、発生時を振り返って「第1救護・第2復旧・第3復興方針を貫徹する努力、連日閣議を開き寸時の間隙なく、殆ど寝食を忘れて事に当れり」と述べている。
# だが、今回の震災では何よりも頼りにするメディアが異なった。電気も電話も使えず、ツイッターが情報原であった。その範囲とスピードは、テレビ放送をはるかに上回る規模だった。
# 職場や近所での会話、電子メールが瞬時に情報をもたらした。もっとも復旧の最前線をどうとらえるかは難しい。
# だが、最大の問題は、この難局を乗り切る人材の確保だろう。
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うしお May,2011 特別企画 「東日本大震災」の衝撃
大震災ーーー心にのこる話
皆が支え合い、励まし合う「勇気と希望」のエピソードの数々
~ツイッターから~
O父が明日、福島原発の応援に派遣されます。半年後停年を迎える父が自ら願いをしたと聞き、涙が出そうになりました。「今の対応次第で原発の未来が変わる。使命感を持ってゆく」。家では頼りなく感じる父ですが、私は今日程誇りに思ったありません。無事の帰宅を祈ります。
O家を無くした40代の女性が言った「私たちは他人の幸せや喜びをねたむほど落ちぶれていない。皆さんどうぞ我慢せず楽しい時は笑い嬉しい時は喜んで下さい」。私たちも一日も早く皆さまに追いつきます。俺は涙をこらえ笑顔でメールを送った。
O1回の青信号で1台しか前に進めないなんてザラだったけれど、誰もが譲り合い、穏やかに運転している姿に感動した。複雑な交差点で交通の5分以上も完全に停止するシーンもあったけど、10時間の間・お礼以外のクラクッション以外を聴く事がなかった。恐怖と同時に心温まる時間で、日本がますます好きになった。
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