« 気仙沼 蝋燭の光でこの手記を書く 畠山重篤 かき養殖業 | トップページ | 特集 震災2ヶ月にいま、考えること 東北処分の歴史を繰り返すな 戊辰戦争の教訓と福島原発事故 »

2011年5月20日 (金)

我が中高一貫校の思い出

私の人間形成の上で潜在的基礎をなしているのは、今まではあまり意識しなかったが、大東亜戦争が終わり、学校制度がGHQの命令で、それまでの複式から6・3・3.4制の一本に変更された当時、これでは将来の日本がダメになると、日本を指導する謂わば幹部候補を養成する為、昭和25年(1950年)いち早く、それまで和洋女学校として存在していた学校法人を、折から軍隊が解放され無用となった練兵場を市の中心のお城の前に安く買い取り、中高一貫校を設立した学校経営者がおり、それまで田舎の小学校で、丁度私がその小学校を卒業する昭和27年(1952年)に香川県綾歌郡に4ヵ村協立の飯山中学校が設立する事になり、本来ならば私はその飯山中学校の第1回卒業生となるはずであったが、五反百姓の三男坊の私の将来を考えた今は亡き父が、当時大変な教育費が掛かったと思われる、前述の中高一貫高の香川県大手前中等高騰学校に入学させて貰った。

その当時の先生方は香川県の庶務課で主に進駐軍の通訳をしておられた小野先生、東北大学を卒業され新婚の奥様ご同伴で赴任された稲垣先生、香川大学で歴史専門で学校の近くの市営住宅に住んでおらせた玉村先生、生物の分類学の専門の和気先生、大阪大学卒業で多度津の少林寺拳法を学ぶのが目的で赴任された武内先生らに学問の基礎を中学校に時代に叩き込まれた。

武内先生のニュートン力学(古典物理学)の3法則で全ての力学事象を見事に説明して見せた。

稲垣先生の日本国憲法と民主主義とそれを踏まえた国会、地方自治、そのノートが残っていればと思う

玉村先生の歴史とは5W1Hの追求であると時業の第1回目に説明された

小野先生により、キングリッシュの徹底的な暗記、英語で考える習慣をつける

校長先生の方針で、学科の優勢順位は英語、数学、理科、社会、国語は厳密に守られたが、私は今では
この考え方には反対だが、受験戦争では有利かも

その後、目出度く大手前中高等学校を卒業したが、京都、早稲田に堕ち、浪人してその当時
アンカンリツポンといわれていた立命館大学理工学部に入学し、当時まだご存命だった末川博博士の法律概論やお名前は忘れましたが、先生の資格を取るために是非とも執拗だった心理学概論や経済学概論も受講しました。京都の北西にあった衣笠キャンパスは赤松の林の中にフジの花さき、等持院や仁和寺も近く、本当は良き
メモトリアムの4年間でした。

その後、今と違い5月の連休にはすでに入社試験を受けの日の内に合格の通知が学校にあり、家に寄ってから学校の帰ると、もう他の会社には就職活動はできないと言われ、なんだかがっかりしとのを覚えています。

その会社で啼かず飛ばずの32年7ヶ月の勤めを終えて2000年5月に停年退職した時、介護制度が新しく
発足し、愛媛県の訪問介護員に課せられた講習をまず3級から、翌年には妻と一緒に2級の訪問介護員の講習修了し、その証書を受けました。

早速砥部町社会福祉協会に履歴書を付けて登録に行きましたが、年齢が60歳を超えているという理由で受け付けてももらえませんでした。しかし、妻はまだ年齢に余裕があったので、登録はしてくれましたが車の運転免許証を持っていので、実際の戦力にはならないようでした。

今は家の直ぐ近くにある愛媛県総合運動公園の初級テニス教室の入り、テニスと昨年から入った団地の老人会
”白梅会”でクロッケをしています。


|

« 気仙沼 蝋燭の光でこの手記を書く 畠山重篤 かき養殖業 | トップページ | 特集 震災2ヶ月にいま、考えること 東北処分の歴史を繰り返すな 戊辰戦争の教訓と福島原発事故 »

学問・資格」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 我が中高一貫校の思い出:

« 気仙沼 蝋燭の光でこの手記を書く 畠山重篤 かき養殖業 | トップページ | 特集 震災2ヶ月にいま、考えること 東北処分の歴史を繰り返すな 戊辰戦争の教訓と福島原発事故 »