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2011年7月19日 (火)

戦中派の死生観 伝説の中のひと

戦中派の死生観 吉田 満

伝説の中のひと 「文藝春秋」昭和50年3月号 初出
 高知から南西に汽車で1時間ほどの距離にある須崎は、広い土佐湾のまさに中央に位置する天然の良港で
 四国では最大の人間魚雷基地が設けられていた。米軍が四国南海岸に上陸した場合、海軍は水ぎわで百
 万人の将兵を殺傷する目標のもとに、5段構えの特攻攻撃を準備したが、その成否は上陸用舟艇、とくに
 指揮艦の動きを的確に補足できるかどうかにかかっており、対艦船用電探の設置場所として選ばれたにが、
 須崎湾の外延にある久通部落の切り立った断崖、標高280メートルの法院山山頂であった。
 私は設営隊長を命ぜられ80名の部下と現地に駐屯し、建設期限の8月15日を目指して、昼夜兼行の突貫
 工事を続けなければならなかった。太平洋をへだてたアメリカとにらみあうこの海岸線は、すでに文字通り第
 一線であり、午前と午後の一日二回の定期空襲から身を守るまるために、われわれ、海軍と村民は必然的に
 一心同体になった。婦人会、女子青年団、小中学生を総動員した建設工事は、すべて自発的奉仕によるもの
 であった。
 やがて敗戦の日がきた、四国は中国軍に占領されるらしいという噂が流れると、女子青年団長がやってきて
 「万一辱めをうけるようなことがあれば、私たち一同、先祖伝来の毒薬をもって潔く自決する用意があります」
 と報告した。若い士官は戦艦長門にのせられて原爆実験に供されるという風評を伝えきて、村長が私の身柄
 をあずかりたい、部落全体の責任でかくまってみせる、と言い切った。小学校代用教員の座は、世をしのぶ
 仮の姿でもあったのである。
 ・・・・・・・・
 20数年ぶりに訪れた久通村小学校の校舎は手際よく改造され、二つしかなかった教室が三つにふえていた
 教室が二つというのは、456年と123年をそれぞれ合併した授業を、ご夫婦の先生が手分けして受け持って
 いたのだが、奥さんが体をこわしたので低学年の方をしばらくみてくれないかという話が、終戦で軍務から解放
 されたばかりのところに舞鋳込んだ。私はよろこんでこの大役を引きうけた。
 ・・・・・・・
 土曜の夕方の学校は深閑とぢている。私はゆっくりと教室をわわり、小さい椅子に腰をかけた。人声がしたの
 で校庭に出て見ると、5,6年ぐらいの女の子が二人。陽やけした肢体を舞わせて鉄棒で遊んでいた。
 「ここの山の上に、むかし海軍が陣地を作っていたという話をきいたとがある?」
 「母さんから、きたたことある」
 一人の子がハキハキと答えた。
 「峠の先の頂上に洞穴を掘って、四角い大きな箱のような装置を据えつけたんだけど、そはは今どうなっている
 だろう」
 「ぼうぼう、草がいっぱいはえています」
 「その装置は敵の軍艦をつかまえる電探でね。コンクリートの陣地を作るのに、小学生が全員、いち日になん
 回も浜から砂を運びあげてくれたり、お母さんたちにもずいぶん手伝ってもたったんだ」
 「ばわちゃんいつもその話をします」二人は顔を見合わせてニッコリした。
 ・・・・・・・・
 四半世紀ぶりに再訪して、女の子たちとかわした会話は、この予感がまちがっていなかったことを暗示していた
 戦後のめまぐすしい時代の流れれに、むなしく過ぎていった歳月。置き忘れてしまった生甲斐と友情。
 しかしなお「伝説」は大切なもそとして語りつがれているにちがいない。


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