戦中派の死生観 伝説からぬけ出てきた男
戦中派の生死観 吉田 満
伝説からぬけ出てきた男 「文藝春秋」昭和51年4月号 初出
昨年3月号の本欄(文藝春秋)に「伝説の中のひと」という題で、終戦を海軍少尉として迎えた、高知県須崎の
人間魚雷基地の話を書いた。私がそのとき80名の部下とそもに押岡(おしおか)という部落に駐屯していたの
は、上陸用舟艦迎撃の電探基地建設のためだったから、隊長がみつかれば生かしてはおかないだろう、部落
の責任でかくまおうということで、しばらく小学校の代用教員に身をやつすことになった。
それから20数年、再びこの地を訪ねてみると、戦争を知らない子供たちの間にも、われわては伝説的な存在
として生きていた。村民と海軍が一心同体で堪えた毎日の空襲、1日1日を死と直面して明け暮れた異常な生
活、その息苦しいような生甲斐、むき出しの同志愛を象徴する「伝説の中のひと」として、透明な追憶に中に生
きつづけていた。私は銀髪初老のわが身をかえりみ、伝説をけがしてはならぬことを悟って、黙々と立ち去った
にであった。
さて本誌の読者層は、さすがに広い。この記事はたちまち部落に2,3の人の目にとまり、顔を見せずに退散
するとは何事か、とお叱りをうけた。「伝説」からぬけ出して正体をあらわせ、というわけである。当時片腕となっ
てよく補佐してくてた山下上等兵曹が、よろこんで同行したいと申し出た。かくして3たび、私はこの地を訪れる
ことになったのである。
懐かしい久通(くつう)村小学校の校庭から見下ろす風景が、すっかり変わっている。むかし子供たりをならば
せて野天の授業を愉しんだ頃の浜辺は、さらさらときれいな砂そ盛っていたのに、全体が黒ずんで洗い波に
噛まれている。小さなこの漁村はますます過疎化が進み、漁も網や小釣りが少しあるだけで細る一方だという。
教室が三つ、先生が四人にふえたのは立派だが、生徒は12人で、私が教えていた頃の半分以下である。
中略
私自身、三十年のわが変わりように気が引けて、黙々と立ち去ろうとそた。その心根以上に、彼女たちはいつ
までも、あの頃の「伝説の乙女」のままでいたいと、願っているのだろうか。
| 固定リンク
「心と体」カテゴリの記事
- 我が死生観(2011.07.22)
- 戦中派の死生観 吉田 満 観桜会(2011.07.21)
- 戦中派の死生観 伝説からぬけ出てきた男(2011.07.20)
- 戦中派の死生観 伝説の中のひと(2011.07.19)
- 生死観 吉田 満 青年の生と死(2011.07.18)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント