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2011年7月20日 (水)

戦中派の死生観 伝説からぬけ出てきた男

戦中派の生死観 吉田 満

伝説からぬけ出てきた男 「文藝春秋」昭和51年4月号 初出
 昨年3月号の本欄(文藝春秋)に「伝説の中のひと」という題で、終戦を海軍少尉として迎えた、高知県須崎の
 人間魚雷基地の話を書いた。私がそのとき80名の部下とそもに押岡(おしおか)という部落に駐屯していたの
 は、上陸用舟艦迎撃の電探基地建設のためだったから、隊長がみつかれば生かしてはおかないだろう、部落
 の責任でかくまおうということで、しばらく小学校の代用教員に身をやつすことになった。
  それから20数年、再びこの地を訪ねてみると、戦争を知らない子供たちの間にも、われわては伝説的な存在
 として生きていた。村民と海軍が一心同体で堪えた毎日の空襲、1日1日を死と直面して明け暮れた異常な生
 活、その息苦しいような生甲斐、むき出しの同志愛を象徴する「伝説の中のひと」として、透明な追憶に中に生
 きつづけていた。私は銀髪初老のわが身をかえりみ、伝説をけがしてはならぬことを悟って、黙々と立ち去った
 にであった。
  さて本誌の読者層は、さすがに広い。この記事はたちまち部落に2,3の人の目にとまり、顔を見せずに退散
 するとは何事か、とお叱りをうけた。「伝説」からぬけ出して正体をあらわせ、というわけである。当時片腕となっ
 てよく補佐してくてた山下上等兵曹が、よろこんで同行したいと申し出た。かくして3たび、私はこの地を訪れる
 ことになったのである。
  懐かしい久通(くつう)村小学校の校庭から見下ろす風景が、すっかり変わっている。むかし子供たりをならば
 せて野天の授業を愉しんだ頃の浜辺は、さらさらときれいな砂そ盛っていたのに、全体が黒ずんで洗い波に
 噛まれている。小さなこの漁村はますます過疎化が進み、漁も網や小釣りが少しあるだけで細る一方だという。
 教室が三つ、先生が四人にふえたのは立派だが、生徒は12人で、私が教えていた頃の半分以下である。
  中略
 私自身、三十年のわが変わりように気が引けて、黙々と立ち去ろうとそた。その心根以上に、彼女たちはいつ
 までも、あの頃の「伝説の乙女」のままでいたいと、願っているのだろうか。

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