戦中派の死生観 吉田 満 観桜会
戦中派の生死観 吉田 満
観桜会 「季刊芸術」1979年夏号 初出
仁和寺の桜は、七分咲きくらいの見頃であった。4月14日といえば、京都では大方の桜がすでに盛りを過ぎ
ているのに、御室桜の名で知られるここの桜は、また遅咲きでも知られ、まして土曜日の午後とあれば、あふ
れるような観桜客を集めていた。
日が暮れかかって、花は重たいような、なまめかしいほどの夜の風情を、大地に向けて漂わせはじめていた
背の高い木は1本もなく、どれも四肢を踏まえて低くかがんだ枝振りである。そのあいだを縫って、三々五々
われわれはしばし足をとめながら歩いた。
われわれ、というのは、海軍四期予備学生の同期のことである。毎年春のこの時期に、関西在住の仲間が
京都にあつまって、花見と慰霊祭を兼ねた会を持つようになってから、数年になる。今年の参加予定者は百五
十人をこえ、今までにない盛会という。私は、はじめての経験であった。慰霊祭のあとで、1時間ほど話をする
ように幹事から命じられて、この日の午後、東京から新幹線で着いたばかりであった。
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同期生の集まりに、夫人たちの参加がめっきりふえてきた。初めの頃は、海軍への愛着にとりつかれた男
たちだけが主役で、夫人は何か異分子の感じがあったが、今日は仁和寺の桜という環境のせいか、奥さんたち
も立派な主役に見える、いやむしろ、元海軍の会合らしく姿勢を正して生き生きと行動しているのは、彼女たち
である。
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われわれがこうしてあつまるのは、過去がただ懐かしいからではない。それぞれ自分の言動に釈明は出来て
も、重大なことに道を過ったくいがある。生き残ったものに課せられた仕事を、怠ってきたのではないかという苛
立ちがある。その不甲斐なさの共感が、仲間同士くり返し集まって語り合いたいという衝動にかり立てるので
ある。初めは軍隊時代の集まりを軽蔑していた夫人たちも、亭主どもの動機にある純粋さがこめられていること
を、今や理解するに到ったらしい。彼女たが胸を張って夫につき従っているのは、「観桜慰霊祭」というこの意図
を評価している証拠であろう。
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戦争に生き残ったものが、今のこの安気な時代に飽食して、盛りの花を愛でて、短い法要すませた安堵感に
身を任せて、死者への挽歌をうたうべきではない。どのような言葉を駆使しようと、どのような表情を装うおう
と、彼らの死の光景、死を迎えた時の心情、その生と死の意味について、得々と語ることは許されない。西尾、 松本。森。格別に親しかった仲間にむかって 彼らの想い出を語ろうとした時、三人の男は、死者としてではな く、眼の前に生きている人間のように、生き生きと蘇った。蘇った死者は、賞賛も慰籍も必要としない。われわれ は、ただ沈黙あるほかはない。
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