戦中派の死生観 吉田 満 「めぐりあいーーー小林秀雄氏」 「島尾さんとの出会い」
戦中派の死生観 吉田 満
めぐあいーーー小林秀雄氏 「毎日新聞」昭和54年5月23・24日 初出
昨年夏、ある新聞の夕刊のコラム欄に、白洲正子さんが「鶴川日記」の一節として、次のような文章を書いて
おられた。「小林秀雄さんの”頼み”」という題である。わたくしは気が付かず、友人から教えられて読んだのだが
読み出すとすぐに顔が火照るのをおぼえた。
---戦争が終わって、進駐軍が入ってきた。夫君の白洲次郎氏は、吉田茂氏のもとで終戦連絡の事務を
扱っておられた。ある日旧知の河上徹太郎氏から「小林秀雄が是非会いたいといっている。用件は本人から
きいてほしい」と電話があった。
・・・・・・
依頼の用件は、吉田 満という人が「戦艦大和ノ最後」という事を書いた。これはぜひ出版しなければならない
本だが、戦争文学だから、進駐軍が許してくれない。「君、何とか先方に話してくれ」。
これだけのことだったが、小林さんの迫力と私心のない話しぶりに心を打たれ、直ちに進駐軍のお偉方に交渉 することになった。
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島尾さんとの出会い 「カイエ」 1978年12月臨時増刊号 初出
この対話の記録は「特攻体験と戦後」というタイトルの対談集として公刊されているから、ここで重ねて内容にふ
れることは控えよう。ある雑誌がこの企画を持ってきたとき、「島の果て」「徳之島航海記」「出狐島記」「出発は
遂に訪れず」「その夏の今は」の一連の戦争文学の作者に合えるという期待から、わたくしはよろこんで承諾し た。
奄美の加計呂麻島に駐屯しる震洋隊隊長として島尾さんが体験した特攻体験は、たしかに特異なものであった
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私が関心をもったのは、文学作品を生む母体としての原体験ではなく、島尾さんという人間が具体的にどんな
体験をしたのかという事実の全体であった。
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司会者の一声でさっと上座に座を占めた。それは予備学生出身の官軍士官が1期後輩を前にしたとき、おの
から立居振舞にかもし出す貫禄のようなものであった。
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失礼ながらもう還暦を過ぎているはずなのに、訥々と語りつづけて飽きない島尾さんは、たくましさと威厳を兼ね
備え、今なお慈父のようであり昼あんどんの隊長だんのようであった。
そのことの発見は、島尾さんとのあいだに初めて実現した出会いの、よろこばしい収穫であった。
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