伊予湯岡碑文とは
碑の現物は亡失し、文面のみ「釈日本記」巻14所引の「伊予風土記」逸文に残っています。「釈日本記」や「万葉集注釈」が引用した「伊予風土記逸文」には、推古4年(598年)聖徳大使(厩戸皇子)と思われる人物が伊予(現在の愛媛県)の道後温泉に高麗の僧・慧城臣なる人物を伴って赴き、その時湯岡の側にこの旅を記念して「碑」を建て、その碑文が記されていたとされています。
その原文は難解ですので、梅原猛氏が著書「聖徳太子」の中の現代語訳を引用させてもらいます。
「法興6年10月 我が法王大王が慈恵法師及び葛城臣とともに、伊予の村に遊んで、温泉を見て、その妙験に感嘆して碑文を作った。思うに、日月は上にあって、すべてのものを平等に照らして私事をしない。神の湯は下から出でて、誰にも公平に恩恵を与える。全ての政事(まつりごと)は、そのように自然に適応して行われ、すべての人民は、その自然に従って。ひそかに動いているのである。かの太陽が、すべてのものを平等に照らし、偏ったところがないのは、天寿国が蓮の台に従って、開いたり閉じたりすようなものである。神の温泉に湯浴みして、病をいやすのは、ちうど極楽浄土の蓮の花の池に落ちて、弱い人間を仏に化するようなものである。険しくそそりたった山岳を望み視て、振り返って自分もまた、五山に登って姿をくらましたかの張子平のように、登っていきたいと思う。椿の木はおおいかさなって、丸い大空のような形をしている。ちょうと「法華経」にある5百の羅漢が、5百の衣傘をさしているように思われる。朝に、鳥がしきりに戯れ鳴いているが、その声は、ただ耳にかまびすしく、一つ一つの声を聞き分けるこてはできない。赤い椿の花は、葉をまいて太陽の光に美しく照り映え、玉のような椿の実は、花びらをおおって、温泉の中にたれさがっている。この椿の下を通って、ゆっくりと遊びたい。どうして天の川の天の庭の心を知ることができようか、私の誌才はとぼしくて、魏の曹植のように、7歩歩く間に詩をつくるこががでかいのを恥としている。後に出た学識人よ、どうがあざわらわないでほしい」(「聖徳太子」梅原猛・著。集英社)
愛媛県や松山市の考古学者は、どんな方法でも良いからこの碑文を掘り出せば、道後の湯が日本最古の温泉であると、確実な証拠になる。
願わくば早く発掘される事を祈るのみ
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