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2012年2月20日 (月)

あるスポーツデーの一日

昨日2月19日(日)愛媛県総合運動公園、主にニンジアスタジアスにて行われた「えひめスポーツデー」に参加してきました。

アニマル浜田と地元タレントの桝形浩人さんによるトークショーが行われ、拝聴しました。浜口さんについては
私は元プロレスラーが娘を食い物に、「気合だ!」と叫んでいると馬鹿にしていました。

桝形さんとのトークショーを拝聴して、決してそんな生やしいものでなくて、娘さんを15年間も長期にわたり、日本チャンピオンの座に維持させた続けた事は、親としてまた指導者として、真に理論と実践に基くものである事がよく理解できました。

気合だ!と叫ぶ事により、緊張やストレスを開放し、リラッスして再挑戦する事だと理解しました。
緊張、開放、リラッスのリズムが大変重要とのことでした。
また、どんな惨めな状態に置かれても諦めるてしまえば終わりであるとの主張も頷けました。

人生 暦年齢ではなくして、やる気負けん気で気合だ!と叫んで生かされている限り何事のにも挑戦する心構えが大切で、必要と同感しました。

トークショーの次の体験コーナーでは、西条中央スポーツクラブが開催している太極拳を実際に体験してみました。
私は生涯スポーツとして硬式テニスを選びすでに10年以上続けいますが、これと平行して是非、太極拳もしたいものだと痛感しました。

同時に行われた餅まちでは幸い二個いりの餅の袋を2個手に入れることが出来嬉しく思いました。
四温晴れの楽しい半日のスポーツデーでした。2、3歳の男の子との交流も出来ました。

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2012年2月14日 (火)

愛媛学 織田ヶ浜 埋め立てによる海岸線の侵食


今治市の東部、惣社川の下流に位置する織田ヶ浜は数キロに及ぶ白砂青松の砂浜であったが、工業地帯増設の用地として、昭和の終わり頃に埋め立てられようとした。折から環境問題が取りざたされていた時代でもあり、ある人を中心に熱心な反対運動が起きたが、埋め立て側が裁判で勝利し、海岸線の約半分が埋め立てられた。
 
中国工業技術研究所(広島市呉市、中工研)の実験の結果、潮流に対して垂直に突き出た構造物がある場合、本来の流れとは反対の「反流」が渦巻きのように発生することが分かった。

織田ヶ浜が浜付近の満ち潮は北から南へ流されており、埋め立て地以南で起こった反流が、浜の砂をさらっている可能性は高い。

「odagahama.jpg」をダウンロード

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2012年2月13日 (月)

愛媛学 石鎚


松山市の夏の祭りで有名な野球拳の創始者であり、また有名な川柳作家でもあった
前田伍健が”石鎚は愛媛の鎮め”と表現している様に、正に石鎚山は愛媛県の守り神であると思う。
その雄姿は春夏秋冬に美しいが、私が住まいする砥部の近くでは
春は愛媛県総合運動公園のソメイヨシノの満開の頃に、中央広場の公園を東西に貫く道路の頂上からの眺め
夏はその陸上競技競技場のメイインスタンドの真東に青く見える峰
秋は重信川原の月見での夜の微かな山容
冬は松山南環状線の和泉大橋の上から、西日を受けて残雪の真白に光る峰姿

また気候上はその山脈が台風の通過の障害となり、中予は台風に見舞われる事が極めてすくないと思う。
この地に永住出来る幸せをつくづくと石鎚の御かげと、今は喜んでいます。

愛媛学には地質学的にも、気象学的にもまた信仰上でも石鎚を加える必要があると考えます。

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2012年2月 8日 (水)

愛媛学 長い海岸線 全国第5位


都道府県別の海岸線延長
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7232.html
上図で解る様に愛媛県の海岸線は1,633kmで都道府県別の第5位です。

海岸線が愛媛らしさをあらわしていると私は考えます。

昔は白砂清松の海岸が有名でした、今治の海岸も、長い反対運動を押し切って裁判で決着し半分埋め立てられ、いまでは工業地帯となり、毎年 春催される今治ハーフマラソンの通過道路となっています。

またこの長い海岸線のお陰で産業面では真珠やハマチの養殖あるいは、いまでは全国第2位になりましたが柑橘の生産にも、この海岸線が関係していものと私は考えています。

またつい最近の2月5日(日)に行われた愛媛マラソンも、昔は松山市と砥部町の丘陵地帯にある愛媛県総合運動公園の陸上競技場を使用していましたが、ゴール直前の急な登り坂があり、タイムが期待出来ない事から一昨年から、北条の海岸線を走る国号196号線に変更されました。

以上3点列挙しましたが、愛媛学ではこの長い海岸線も研究対象の一つに必ず入ると私は愚考します。


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2012年2月 7日 (火)

愛媛学 道後の湯 Ⅳ 道後温泉とともに



「えひめの記憶」ー{「ふるさと愛媛学」調査報告書}

道後温泉とともに
道後(どうご)温泉街で土産物店を営む遠藤侑子さん(昭和12年生まれ)に話を聞いた。実はこの店は昭和49年(1974年)まで「すし元(もと)」という旅館であった。旅館の創業は江戸末期から明治初期ごろで、遠藤さんの曽祖父(そうそふ)が始めたといわれる。

道後の町並み

日本最古の温泉として知られる道後温泉は、聖徳太子が入浴したという伝承もあり、古くから朝廷との関係が深かったが、中世に河野氏が温泉館(ゆのたち)を設け、江戸期に松山・松平家初代藩主松平定行により温泉施設は充実する。明治22年(1889年)道後湯之町が誕生し温泉が町営になると、本格的に温泉を中心としたまちづくりが始まった。現在の本館(神の湯三層楼)が完成したのは明示27年で、以来半農半商だった町は旅館その他の商業地に変貌(へんぼう)し、家屋もわら屋から2層3層の楼になっていった。

昭和28年(1953年)の国民体育大会開催時に、各旅館に内湯がないので評判が悪かったため、同31年に内湯が引かれたが、内湯の完成は本館から離れた鷺谷(さぎだに)などの高台に大型ホテルが建ち並ぶ要因となった。昭和39年商店街に全蓋(がい)式のアーケード、同52年にはレンガ歩道が完成し、温泉商店街の景観は一変することになった。

いわゆる「国際観光温泉都市」の出現である

愛媛県生涯学習センターのホームページよりの索引「データベース「えひめの記憶」」より

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2012年2月 5日 (日)

愛媛学 道後の湯 Ⅲ 遍路と温泉

道後温泉は古くから世に知られた天下の名湯である。現在の道後温泉本館は、明治27年(1894)完成の木造3階建で、入母屋造り、桟瓦葺きの建物で、国の重要文化財となっている。
遍路ににとって道後温泉は大きな楽しみであったと思われる。長く苦しい遍路の旅の途次、昔から遍路たちはここで旅の疲れを癒した。「玉の石」には、「四国遍路七ヶ所 三十三番じゅんれい同行幾人にても勝手次第一宿するなり」とあり、四国遍路七ヶ所参り、松山西国巡礼の人々が当時、道後で自由に一宿できたことがうかろがえる。また、「伊予道後温泉略案内」の中に、「遍ん路三日まではゆせんいでず 一まいりには二十四もんづヽ、ならびに二とうみやせん十二もん出る也」と記さていて、「三日」までは銭湯免除という遍路を優遇する習慣があったことがわかる。しかし、幕末にはこの習慣も変化し、安政2年(1855)の定書によると、四国遍路や通り掛の者は三日間に限って止宿湯治を許可、また遍路のほか身なりのよろしからざる者や病気の者は養生湯に限っての入浴を許すことなどが慣行的に定められた。さらに、温泉街における湯治宿と遍路宿との弁別も明確となり、遍路が道後で一般旅人の宿に宿泊するこては困難になっていったらしい。
明治・大正には、それががはっきりしてきたようで、大正7年(1918)に遍路した高群逸枝は、「娘遍路記」の中に、「道後温泉町」に着いたのは午後の五時頃であったろう。或る旅人宿を訪ねたら、「お遍路さんはお断りして居りますから」と言う。仕方が無いので又復汚い宿に追い込まれて了つた」とある。

「伊予の遍路道 (平成13年度 遍路文化の学術整理報告書) 愛媛県」 頁88よりい引用

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