2011年7月22日 (金)

我が死生観

我が死生観

 本願を信じ

 念仏を唱えると

 仏になる

 亡き

 父

 母

 の元に

 往く

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2011年7月21日 (木)

戦中派の死生観 吉田 満  観桜会

戦中派の生死観 吉田 満

観桜会 「季刊芸術」1979年夏号 初出
  仁和寺の桜は、七分咲きくらいの見頃であった。4月14日といえば、京都では大方の桜がすでに盛りを過ぎ
 ているのに、御室桜の名で知られるここの桜は、また遅咲きでも知られ、まして土曜日の午後とあれば、あふ
 れるような観桜客を集めていた。
  日が暮れかかって、花は重たいような、なまめかしいほどの夜の風情を、大地に向けて漂わせはじめていた
 背の高い木は1本もなく、どれも四肢を踏まえて低くかがんだ枝振りである。そのあいだを縫って、三々五々
 われわれはしばし足をとめながら歩いた。
  われわれ、というのは、海軍四期予備学生の同期のことである。毎年春のこの時期に、関西在住の仲間が
 京都にあつまって、花見と慰霊祭を兼ねた会を持つようになってから、数年になる。今年の参加予定者は百五
 十人をこえ、今までにない盛会という。私は、はじめての経験であった。慰霊祭のあとで、1時間ほど話をする
 ように幹事から命じられて、この日の午後、東京から新幹線で着いたばかりであった。
  ・・・・・・
  同期生の集まりに、夫人たちの参加がめっきりふえてきた。初めの頃は、海軍への愛着にとりつかれた男
 たちだけが主役で、夫人は何か異分子の感じがあったが、今日は仁和寺の桜という環境のせいか、奥さんたち
 も立派な主役に見える、いやむしろ、元海軍の会合らしく姿勢を正して生き生きと行動しているのは、彼女たち
 である。
  ・・・・・・・
  われわれがこうしてあつまるのは、過去がただ懐かしいからではない。それぞれ自分の言動に釈明は出来て
 も、重大なことに道を過ったくいがある。生き残ったものに課せられた仕事を、怠ってきたのではないかという苛
 立ちがある。その不甲斐なさの共感が、仲間同士くり返し集まって語り合いたいという衝動にかり立てるので
 ある。初めは軍隊時代の集まりを軽蔑していた夫人たちも、亭主どもの動機にある純粋さがこめられていること
 を、今や理解するに到ったらしい。彼女たが胸を張って夫につき従っているのは、「観桜慰霊祭」というこの意図
 を評価している証拠であろう。
  ・・・・・・・ 
 戦争に生き残ったものが、今のこの安気な時代に飽食して、盛りの花を愛でて、短い法要すませた安堵感に
 身を任せて、死者への挽歌をうたうべきではない。どのような言葉を駆使しようと、どのような表情を装うおう
 と、彼らの死の光景、死を迎えた時の心情、その生と死の意味について、得々と語ることは許されない。西尾、 松本。森。格別に親しかった仲間にむかって 彼らの想い出を語ろうとした時、三人の男は、死者としてではな  く、眼の前に生きている人間のように、生き生きと蘇った。蘇った死者は、賞賛も慰籍も必要としない。われわれ は、ただ沈黙あるほかはない。


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2011年7月20日 (水)

戦中派の死生観 伝説からぬけ出てきた男

戦中派の生死観 吉田 満

伝説からぬけ出てきた男 「文藝春秋」昭和51年4月号 初出
 昨年3月号の本欄(文藝春秋)に「伝説の中のひと」という題で、終戦を海軍少尉として迎えた、高知県須崎の
 人間魚雷基地の話を書いた。私がそのとき80名の部下とそもに押岡(おしおか)という部落に駐屯していたの
 は、上陸用舟艦迎撃の電探基地建設のためだったから、隊長がみつかれば生かしてはおかないだろう、部落
 の責任でかくまおうということで、しばらく小学校の代用教員に身をやつすことになった。
  それから20数年、再びこの地を訪ねてみると、戦争を知らない子供たちの間にも、われわては伝説的な存在
 として生きていた。村民と海軍が一心同体で堪えた毎日の空襲、1日1日を死と直面して明け暮れた異常な生
 活、その息苦しいような生甲斐、むき出しの同志愛を象徴する「伝説の中のひと」として、透明な追憶に中に生
 きつづけていた。私は銀髪初老のわが身をかえりみ、伝説をけがしてはならぬことを悟って、黙々と立ち去った
 にであった。
  さて本誌の読者層は、さすがに広い。この記事はたちまち部落に2,3の人の目にとまり、顔を見せずに退散
 するとは何事か、とお叱りをうけた。「伝説」からぬけ出して正体をあらわせ、というわけである。当時片腕となっ
 てよく補佐してくてた山下上等兵曹が、よろこんで同行したいと申し出た。かくして3たび、私はこの地を訪れる
 ことになったのである。
  懐かしい久通(くつう)村小学校の校庭から見下ろす風景が、すっかり変わっている。むかし子供たりをならば
 せて野天の授業を愉しんだ頃の浜辺は、さらさらときれいな砂そ盛っていたのに、全体が黒ずんで洗い波に
 噛まれている。小さなこの漁村はますます過疎化が進み、漁も網や小釣りが少しあるだけで細る一方だという。
 教室が三つ、先生が四人にふえたのは立派だが、生徒は12人で、私が教えていた頃の半分以下である。
  中略
 私自身、三十年のわが変わりように気が引けて、黙々と立ち去ろうとそた。その心根以上に、彼女たちはいつ
 までも、あの頃の「伝説の乙女」のままでいたいと、願っているのだろうか。

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2011年7月19日 (火)

戦中派の死生観 伝説の中のひと

戦中派の死生観 吉田 満

伝説の中のひと 「文藝春秋」昭和50年3月号 初出
 高知から南西に汽車で1時間ほどの距離にある須崎は、広い土佐湾のまさに中央に位置する天然の良港で
 四国では最大の人間魚雷基地が設けられていた。米軍が四国南海岸に上陸した場合、海軍は水ぎわで百
 万人の将兵を殺傷する目標のもとに、5段構えの特攻攻撃を準備したが、その成否は上陸用舟艇、とくに
 指揮艦の動きを的確に補足できるかどうかにかかっており、対艦船用電探の設置場所として選ばれたにが、
 須崎湾の外延にある久通部落の切り立った断崖、標高280メートルの法院山山頂であった。
 私は設営隊長を命ぜられ80名の部下と現地に駐屯し、建設期限の8月15日を目指して、昼夜兼行の突貫
 工事を続けなければならなかった。太平洋をへだてたアメリカとにらみあうこの海岸線は、すでに文字通り第
 一線であり、午前と午後の一日二回の定期空襲から身を守るまるために、われわれ、海軍と村民は必然的に
 一心同体になった。婦人会、女子青年団、小中学生を総動員した建設工事は、すべて自発的奉仕によるもの
 であった。
 やがて敗戦の日がきた、四国は中国軍に占領されるらしいという噂が流れると、女子青年団長がやってきて
 「万一辱めをうけるようなことがあれば、私たち一同、先祖伝来の毒薬をもって潔く自決する用意があります」
 と報告した。若い士官は戦艦長門にのせられて原爆実験に供されるという風評を伝えきて、村長が私の身柄
 をあずかりたい、部落全体の責任でかくまってみせる、と言い切った。小学校代用教員の座は、世をしのぶ
 仮の姿でもあったのである。
 ・・・・・・・・
 20数年ぶりに訪れた久通村小学校の校舎は手際よく改造され、二つしかなかった教室が三つにふえていた
 教室が二つというのは、456年と123年をそれぞれ合併した授業を、ご夫婦の先生が手分けして受け持って
 いたのだが、奥さんが体をこわしたので低学年の方をしばらくみてくれないかという話が、終戦で軍務から解放
 されたばかりのところに舞鋳込んだ。私はよろこんでこの大役を引きうけた。
 ・・・・・・・
 土曜の夕方の学校は深閑とぢている。私はゆっくりと教室をわわり、小さい椅子に腰をかけた。人声がしたの
 で校庭に出て見ると、5,6年ぐらいの女の子が二人。陽やけした肢体を舞わせて鉄棒で遊んでいた。
 「ここの山の上に、むかし海軍が陣地を作っていたという話をきいたとがある?」
 「母さんから、きたたことある」
 一人の子がハキハキと答えた。
 「峠の先の頂上に洞穴を掘って、四角い大きな箱のような装置を据えつけたんだけど、そはは今どうなっている
 だろう」
 「ぼうぼう、草がいっぱいはえています」
 「その装置は敵の軍艦をつかまえる電探でね。コンクリートの陣地を作るのに、小学生が全員、いち日になん
 回も浜から砂を運びあげてくれたり、お母さんたちにもずいぶん手伝ってもたったんだ」
 「ばわちゃんいつもその話をします」二人は顔を見合わせてニッコリした。
 ・・・・・・・・
 四半世紀ぶりに再訪して、女の子たちとかわした会話は、この予感がまちがっていなかったことを暗示していた
 戦後のめまぐすしい時代の流れれに、むなしく過ぎていった歳月。置き忘れてしまった生甲斐と友情。
 しかしなお「伝説」は大切なもそとして語りつがれているにちがいない。


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2011年7月18日 (月)

生死観 吉田 満 青年の生と死

死生観 吉田 満

青年の生と死 「主婦之友」昭和53年4月号  初出
 学徒出陣で海軍に入った私は、少尉として戦艦大和に乗り組み、昭和24年4月、22歳で沖縄特攻作戦に参
 加した。大学時代は、平均的な学生として過ごした。聖書は時々読んだが、それまで教会に行った経験はなか
 った。
 戦争の本質や、自分が戦争に参加することの意味について、艦上勤務のあいだに、苦しみながら繰り返し考え
 たが、納得できる結論はえられなかった。しかし内地に残してきた日本人の同胞、とくに婦女子や老人と、祖国
 の美しい山野を、ふたたび平和が訪れる日まで護ることができるのは、われわれ健康な青年であり、そのため
 に命を捨てることがあってもやむをえないと、自分に言いきかせるように努めた。
 この沖縄作戦は、帰りの燃料を持たない必死の特攻出撃であった。したがって、はじめから戦死の覚悟は出来
 ていたがずであるが、米機動部隊との激しい戦闘が一段落して、小休止のような静寂が艦を包んだとき、私は
 肋骨の下から、何ものかが呼びかける声を聞いた。
 ---お前、死に瀕したる者よ 死を抱擁し、死の予感をたのしめ
 死神の面妖はいかん? 死の肌触りはいかん?
 お前、その生涯を賭けて果せしもの、何ぞ、あらば示せ
 ・・・・・
 今にして自らに誇るべき、何ものもなきやーーー
 
 私は、身もだえしながら、その声に答えた。
 ---わが一生は短し、われ余りに幼し、許せ 放せ
 死にゆくものの惨めは、自らが最もよく知るーーー

 いよいよ確実な死を眼前にしたとき、自分の一生をかえりみて、そこに何一つとるに足りるものがない事実を
 あらためて知った。惨めな苛立たしい気持ちを、私はこのように正直に、手記(「戦艦大和ノ最後」)に書いている


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2011年7月17日 (日)

戦中派の死生観 吉田 満 同期の桜

戦中派の死生観 吉田 満 

同期の桜 「文藝春秋デラックス」昭和53年4月号 初出
 海軍時代の仲間が集まると、きまって会の最後に、腕を組み肩を波打たせながら歌う歌「同期の桜」。
 そういう意味では、これはわれわれと同時代の海軍経験者に共通の愛唱歌であって、わたしだけに
 特に特に思い出深い歌とはいえないかもしれない。
 ・・・・・・
 しかしそれを「青春に思い出につながる愛唱歌」としてあえて選んだには、自分なりの理由がないわけ
 ではない。昭和20年の春、戦艦大和の乗組員として沖縄特攻に出撃する前夜、ガンルームの若手士官
 たちは、この歌を何度も高唱して飽きるところがなかった。「同期の桜」は正式の軍歌ではなく、いわゆる
 軍歌風歌謡のたぐいであるが、訓練時代の重要な日課である軍歌演習によってすっかり馴染んでいた
 多くの名軍歌よりも、耳でおぼえただkのこの一曲に方が、その時の気分にまさにピッタリなのであった。
 
 見事散りましょ国のため

 血肉わけたる仲ではないが

 分かれ分かれに散ろうとも

 花の梢に咲いて合おう


 歌詞だけを取り出して書けば、どこかセンチで悲壮ぶって面映いほどであるが、声を合わせて歌っていると
 青春の生き甲斐、友情、献身のいさぎよさといったようなものが自然に通いあうところが、この歌の独特の
 魅力である。
 
 そしてわれわれ戦中派世代は「貴様と俺とは・・・・」とくり返しながら、今そうしている自分が何か相すまぬ
 ような自責の気持ちにかられるのである。
  

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2011年7月16日 (土)

戦中派の死生観 吉田 満 江藤淳「海は甦える」 「海軍とう世界」

戦中派の死生観 吉田 満

江藤淳「海は甦る」  「諸君!」昭和51年4月号  初出
 「江藤さんが、いよいよ山本権兵衛を書くようですよ」と東北大学の池田清教授が教えてくれた。兵学校出身
 ながら戦後政治史を専攻し、「日本の海軍」の著者である池田氏は山本権兵衛の評伝という試みが、とれほど
 野心的な冒険であるかを知りぬいていたはずである。
 山本権兵衛ーーーこの一代の英雄が日本海軍の近代化につくした業績はかくれもないが、権兵衛個人を手が
 かりにその足跡を起して読者を惹きつける物語に仕立てるには、器量があまりにも大き過ぎる。権兵衛は1組織
 の指導者というよりは歴史劇の製作者兼演出家であり、その影響は個々の事件にではなく、一つの時代全体
 にあまねく浸透している。
 権兵衛伝「海は甦る」の出来栄えを占う池田氏のこの懸念が幸い机憂に終わったことは、「文藝春秋」誌の記録
 といわれる3年、36回にわたる長期の連載を達成し、この期間の大半を通じて巻末の創作欄を飾って多数の読
 者に歓迎され、完結後昭和50年度文藝春秋読者賞を受賞したとういう事実が、明らかに示している。

海軍という世界    「勝海舟全集」第16巻月報・1973年3月
 帝国海軍は28年前にほろんだ。これは事実であるが、海軍という世界が長崎伝習所以来90年日本に存在し
 今なおその余滴を後世に残していることも事実である。戦後についていえば、その直後の数年よりも昨今の方
 が海軍の存在を想い起すことが多いのは私だけではあうるまい。
 それはどんな世界であったか。第1に思いうかぶところはふろころの深さである。私のように1年の速成教育で
 任官し1年足らずの実施部隊の経験しかない予備士官でもそれないりにネーヴィー生活への愛着があるし、
 江田島や舞鶴出身の現役士官はもちろん、短期現役主計科、飛行科、軍医科、あらいは7つボタンの予科練
 と、それぞれにわれこそは海軍の魅力を深奥まで極めたものと自負しているのっだから愉快である。馴染みが
 浅ければそれだけ執着も弱いのが普通であるが、兵学校78期のようにわすか数ヶ月、しかもいくつのの分校
 にわかれて初歩教育を受けただけの連中でも、今もって立派な雑誌を定期刊行し旧交を温めあっている。
 海軍とは短いつきあいで失望の余地がなくかえって純粋なあこがれだけが残っているしかもしれない。

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2011年7月15日 (金)

戦中派の死生観 吉田 満 「谷間のなかの日系二世」 映画「八甲田山」

戦中派の死生観 吉田満

谷間のなかの日系二世  「世界週報」 1976年10月12日号 初出
 私はかねてから日系二世の問題に関心を持っている。なぜ興味を持ち始めたのかといえば、太平洋戦争中に
 日本軍に召集された二世の軍人が、両親の祖国であり、アメリカ生まれの自分には敵国である日本のために
 生粋の日本人以上に勇敢に戦うのを目撃したからである。また民族と国籍、ナショナリズムと世界平和、忠誠
 義務と民主主義といった複雑な現代社会の絡み合いのなかで、二世の戦争協力行為が、同じ在日二世の
 仲間やアメリカに残した家族から、どう評価されるかに疑問と期待を抱いたからである。
 ・・・・・・
 アメリカ的な考え方によれば、戦場にある兵士が卑怯に振る舞って職務を怠ることは、直ちに平和の愛好者
 であることを意味しない。N君が多くのハンディキャップを克服し、生命を賭けて最後まで職責の完遂にベスト
 を尽くしたのは、彼が軍国主義者であることを示すものではなく、二世が信頼するに足る人間であることのあか
 しでる立派な行為である、というのが称賛の理由であった。
 ・・・・・・・
 最近、日本人の海外進出はいよいよ活発化し、海を渡る日本企業、セールスマン、日本人家族は、新しい
 移民種族の大部隊を生み出しつつある。海外生活の長い子供たちの中には、早くも二つの国の谷間に落ち
 込んで、国籍を失いかけているものさえ現われている。民族、国籍の谷間を埋めるのは難事業であるが、その
 ことに成功した一つの極限の姿が、ほかならぬ日系二世の現実であることを忘れてはなるまい。
 ヒューマニズム、国境を越えた友情、寛容と理解、そんなきれい事では、世の荒廃は乗り切れない。
 厳しい目、冷静な判断、地道な努力の積み重ねだけが、道を開くであろう。

映画「八甲田山」 「桜桃」 22号・1977年夏 初出
 わたくしは正直のところ、映画の出来にはあまり関心しなかった。原作の重厚な力には、やはり及ばなかった
 わたくしは描写された津軽の自然のすばらしさに比べて、「無謀な雪中行軍と悲劇的な死」というテーマが、
 位負けしているように感じた。
 「二百人をこえる集団の死の彷徨」という異常な事実の意味を、ぜんぶ否定するのか、少しは肯定するのか
 肯定するとすれば、どの部分をどうのように肯定するか、がはっきりしないのである。
 ・・・・・・・
 その古い事件に三年の歳月と数億の制作費をかけて、大作映画に仕上げた真の意図は何かという疑問であり
 外国人が、この映画が日本の青年男女を熱狂させている事実をきかされて、何を感じるだろうかという不安で
 ある。

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2011年7月14日 (木)

戦中派の死生観 吉田 満 「めぐりあいーーー小林秀雄氏」 「島尾さんとの出会い」

戦中派の死生観 吉田 満

めぐあいーーー小林秀雄氏   「毎日新聞」昭和54年5月23・24日 初出
 昨年夏、ある新聞の夕刊のコラム欄に、白洲正子さんが「鶴川日記」の一節として、次のような文章を書いて
 おられた。「小林秀雄さんの”頼み”」という題である。わたくしは気が付かず、友人から教えられて読んだのだが
 読み出すとすぐに顔が火照るのをおぼえた。
 ---戦争が終わって、進駐軍が入ってきた。夫君の白洲次郎氏は、吉田茂氏のもとで終戦連絡の事務を
 扱っておられた。ある日旧知の河上徹太郎氏から「小林秀雄が是非会いたいといっている。用件は本人から
 きいてほしい」と電話があった。
 ・・・・・・
 依頼の用件は、吉田 満という人が「戦艦大和ノ最後」という事を書いた。これはぜひ出版しなければならない
 本だが、戦争文学だから、進駐軍が許してくれない。「君、何とか先方に話してくれ」。
 これだけのことだったが、小林さんの迫力と私心のない話しぶりに心を打たれ、直ちに進駐軍のお偉方に交渉  することになった。
 ---

島尾さんとの出会い 「カイエ」 1978年12月臨時増刊号 初出
 この対話の記録は「特攻体験と戦後」というタイトルの対談集として公刊されているから、ここで重ねて内容にふ
 れることは控えよう。ある雑誌がこの企画を持ってきたとき、「島の果て」「徳之島航海記」「出狐島記」「出発は
 遂に訪れず」「その夏の今は」の一連の戦争文学の作者に合えるという期待から、わたくしはよろこんで承諾し  た。
 奄美の加計呂麻島に駐屯しる震洋隊隊長として島尾さんが体験した特攻体験は、たしかに特異なものであった
 -----
 私が関心をもったのは、文学作品を生む母体としての原体験ではなく、島尾さんという人間が具体的にどんな
 体験をしたのかという事実の全体であった。
 -----
 司会者の一声でさっと上座に座を占めた。それは予備学生出身の官軍士官が1期後輩を前にしたとき、おの
 から立居振舞にかもし出す貫禄のようなものであった。
 -----
 失礼ながらもう還暦を過ぎているはずなのに、訥々と語りつづけて飽きない島尾さんは、たくましさと威厳を兼ね
 備え、今なお慈父のようであり昼あんどんの隊長だんのようであった。
 そのことの発見は、島尾さんとのあいだに初めて実現した出会いの、よろこばしい収穫であった。

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2011年7月11日 (月)

戦中派の死生観 吉田 満 若者に兆す公への関心 あすへの話題 霊のはなし

戦中派の死生観 吉田 満

著者略歴
大正14年1月生まれ。昭和18年12月、東京大学法学部在学中学徒動員で海軍に入隊。昭和20年4月「大和」に乗り組み沖縄突入作戦に参加。日本銀行監事在職中、昭和54年9月、肝不全で死去。著書に「戦艦大和ノ最後」「鎮魂戦艦大和」「散華の世代から」「日米全調査・戦艦大和」(共著)「提督伊藤整一の生涯」などがある

若者に兆す公への関心 「プレジデント」 1977年4月号
 若者たちの敏感な感性は、戦後の復興から高度成長までの安逸な時代とちがって、彼らが社会の第1線に出
 て自分の知恵で身を立てなければならないこらかの時代は、「公的」なものに積極的にかかわることなくしては
 「私的」な仕合せそのものが初めから成り立たたないことを予感している。

{50年」~{決別」 「日本経済新聞」コラム「あすへの話題」・昭和53年1月~6月26日の毎週月曜日に24回
掲載(但し1月16日のみ休載)
 50年
 陸軍と海軍
 富士山の177倍
 詩人
 津軽海峡・冬景色
 文字に飢える
 火と水
 書斎
 フォーク
 民度
 スーパースター
 白髪と軍帽
 社会の1年生
 人間の幸福
 独行の人
 エリート支配
 平和
 ライフワーク
 よき時代
 死
 罪と罰
 遠い想い出
 真実を語る
 決別

霊のはなし 「オール読物」 昭和51年12月号
 私が格別のご厚誼を願っている女性に、造型美術、音楽、舞踊、文学のあらゆる分野にひいでた、万能の芸術 家がいる。彼女はまたスケールの大きな旅行家で、殊にインカの遺跡に深い愛着を持ち、最近は年に一度はか ならずペルーを訪問する、これから紹介するのは、彼女がはじめてペルーを訪れてからまだ間もない頃の話であ
 る。
 以下はこの旅にお伴をした、若い女性のお弟子さんの告白である。先生は楽天家。「明日はきっといいこごがあ りますよ」と仰った。首都リマに着いて、タスコと並ぶインカの中心、チチカカ湖までの飛行機をホテルで手配
 しようとすると、あいにく大掛かりな調査団とぶつっかて、いつもはすいていえるはずなのに、切符が1枚もない
 キャンセルもないどろうという。 
 翌朝、起されてあたりを見回すと、トイレのドアが開いている。 先生 髪を梳ったあと、きれいに後始末を
 今度はトイレから手招きしていらっしゃる、洗面台をのそくと、真っ白なクリームがたっぷりと、大きなヤマににっ  て、底にうかんでいる、香りも艶も、いままで見たこともない高級品のよう。誰のかしら、と思った瞬間、背筋が
 ゾクゾクした。
 「もう叱らないわよ」先生は悪戯っぽそうな笑顔になって、「これは、王族のお姫様ね。私たちがインカが大好き
 なので、ここでよろこんでお迎えしれいるっていうこを娘さんらしく黒髪とクリームで知らせているのよ。
 待っていらっしゃい。いい知らせがくるから」
 食事すませて部屋で休んでいると、けたかましく電話が鳴った。「ほら、航空会社からよ、」歌うような声。
 思いがけずヂャンセルが2枚あったので、すぐ飛行場に来てほしい、とのこと。
 霊のことといえば、このように陽気で、人を不幸のするよりは幸せにするはなしが、好きであす。

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